【静岡 人語り】絵本作家・水野さん


 水野靖弘先生が絵本について語って下さいました。初出版後も悲惨な生活続くが、信念ある作品作りは崩さず
当時は第2次絵本ブームで、出版社への持ち込みも多かったんです。昔の編集者は厳しかったですよ。持ち込みの行列がベルトコンベヤーみたいに並んでいて、編集者は「じゃあこの本を参考にしたら」とアドバイスする程度。処女作の「ときの おねえちゃん」も、持ち込み作品のひとつでした。フレーベル館の田中さんという編集者に見せたら、「なんかへんてこだけど預かってみようか」という感じで受け取ってもらえて。他の持ち込みの本とは差別化ができていたんでしょうね。へんてこだけど、変わってるなって。

 自分の描いた絵本が形になったときは、めちゃくちゃうれしかったですね。新宿や池袋の大きな書店に自分の本が並ぶ。友達にビデオを借りて、平積みになった本を撮影していました。お客さんがそばを通ると「買えー、買えー」と祈る。半分お金を出すから買ってくれよって気持ちでしたね。「ときのおねえちゃん」は絵本ブームだったこともあって、4千部ほど刷ってくれました。でも全然売れなくて、増刷もしなかった。当時は「絵本は、こんなものだろう」と絵本のことなど全然分かっていませんでした。今は、絵本にはいろんな可能性があって奥が深いなあって思っています。

 初めて印税が入ってきたんですが、それこっきりでしたね。これで今日からちゃんとしたご飯が食べられるなと喜ぶ一方で、どんどんお金はなくなっていきます。田舎からお米を送ってもらって、おかずは納豆や生卵、もやし炒め。悲惨なんてもんじゃないですよ。銀行で280円を下ろすために、通帳と印鑑を持っていきましたね。いまだに金額を覚えてますから。家族には30歳になるまでは絵本をやりたいと言い続けていました。

 「うさぎちゃんやねずみちゃんが出てきて、一緒にケーキを食べる」なんて、とにかくかわいいものをみたいなのは最初から描かなかったですね。絵本は子供だけのものじゃないと思っていたので、子供向けの本という発想はなかったんです。本が売れるためには変えないといけないのかなと思ったこともありますが、それをやったらおしまいだなと。自分の本当に描きたい絵で、信念がある作品を作ろうという気持ちでした。

 30歳を過ぎた頃、「いっぱい」という絵本が急に売れ始めたんですよ。何で売れているんだろうと不思議に思っていたら、編集者が絵本研究家の高山先生の講演会場に連れて行ってくれました。先生は「いっぱい」の読み聞かせをしていて、まるで自分の作品のように完全にものにされてましたね。それで先生が講演会で各地に行くと、地元の本屋で「いっぱい」が売れる。ぼくが先生の子供くらいの年だったので、本当にかわいがっていただきました。

 それから絵本作家の鈴木先生にもお世話になりましたね。ぼくは清水町で育ったので、最初はペンネームを水野靖弘 にしようと思っていたんです。そのことを編集者に言ったら、同じ名前の偉い方がいるよと注意されて。そこから水野先生ともお知り合いになって、新刊を新聞の書評で取り上げていただいたり。いい循環が生まれて、出版社から絵本の依頼が来るようになりました。

 イラストレーターになるという夢は、ぼくの絵本で笑ってくれた人を見たときに完全になくなりましたね。絵本はすごいものなんだなと気づいた。1枚の絵も素晴らしいけど、ストーリーのある絵本の方がぼくには合っています。